スタッフの問題 第5回 ●

スタッフの史的分析(4)


中小企業組合士 金澤智男

c)現代日本のスタッフの典型(つづき)

  前回に続いて、サルトルが定義しなかった、真のスタッフである、現代日本のスタッフの典型を紹介する。

ハ)「真の」スタッフ 隅谷三喜男

 「体制側」と「反体制側」の一方に立つのでなく、その中立を守りながら、双方の主張を根気よく聴き、冷静に判断し、戦後民主主義の一大試練であった、成田空港問題の解決を図った、隅谷三喜男氏と、所謂「隅谷調査団」のメンバーは、現代日本の「真の」スタッフと言えよう。

 1)成田の空と大地

 戦後三里塚と芝山に開墾の土地を求めた農民にとって、富里に一旦決定した、国際空港が、ある日何の前触れもなく、自分たちの土地に決定したことは、驚愕でしかなかった。
 ある農民は赤紙・開墾・空港は個別に事件でなく、貧しい農民を襲った3回の赤紙召集だと言っている。しかもこの決定に当たって、政府(体制側)は豊かな「古村」を避けて貧しい「開拓村」を選別して取り上げようとした。
 これに奮起した農民が「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し、20年余の闘争を開始したことは、周知のとおりである。

 2)実力闘争から話し合いまで

 政府は始め、反対する農民を金と代替地で説得出来ると考え、充分農民の生命である「土地」の尊さ、そこに生きる農民の心を図る努力を怠った。その結果、買収に応じない農民を警察力をバックにした強制手段で排除しようと、強制測量・代執行・行き過ぎた警備・検問・家屋等の現状変更の制限等を農民に対して行った。
 始めは陳情や要望等の平和的手段で反対を表明していたが、その対抗手段として農民は中核派等の戦闘的学生組織の支援を得て、自身も青年行動隊・老人行動隊等実力行動を中心とする活動に重点が移って行った。
 そして世論も政府・空港公団を体制側、農民・学生を反体制側と見なすようになり、始め農民を支援していた、社会党・共産党は手を引き、第1期工事が完成し、空港がまがりなりにも開港すると、この問題も次第に風化してきた。
 その後、国際空港としての機能が不十分なりに動き、周辺町村にその恩恵が及び、完全な空港を求める世論が起きた。農民側にも、老齢化・過疎化が進み、対立する体制側との膠着状態を話し合いで打開する動きがでた。幾つかの模索の後で、話し合いによる解決の道が出来た。

 3)ドラム缶が鳴りやんで

 それまで運輸省の各種の審議会で関係があった隅谷三喜男氏がこの問題の行司役になった。
 平成6年11月21に開催された第1回から8年5月24日の第15回までのシンポジウムで、政府側と農民側はお互いの主張と事実の検証を積極的に展開した。その過程で、政治権力による強制的手段によって流血と死者・自殺者が出て、憎悪が支配する25年間の状況が具体的に示された。
 他方、成田空港の利用度が高まり、極限的状況に至っていることも証明された。
 隅谷調査団の基本的視点は、この成田問題を解決するに当たって、民主主義と社会正義の確立を通じて解決を図るのであり、両者の主張を足して2で割る妥協や、見返りを権力側から如何に多く取って、農民側に与えようかという、古典的手段を一切排除することであった。

 4)事業認定失効論争と司法権威の失墜

 対立する論争の中で、極めて重要なものに事業認定失効論争があった。反対同盟が、事業認定は20年を経過して、まだ土地収用ができていない成田第2期工事は、土地収用法の規定によって失効している、という法律論を展開した。これに対して政府側は詳細な反論をしたが、政府説明がその場その場で矛盾しており、反対同盟の鋭い批判に政府側はタジタジとなった。
 法律にうとい農民にこのような法律論争が出来、東大法学部卒の運輸省のキャリアが行ったコジツケと思われる法律解釈論の虚しさを比較して、われわれは驚きと感動をおぼえたのであった。国家との体を張った闘争は、農民の中に人材を育てる結果になった。
 反対同盟熱田派の事務局長だった、石毛博道氏は「成田問題の解決に当たって法的裏付けも権限もない、隅谷調査団がその任務に付いたことは、異例であった。本来ならば政府と住民運動の間に入る機関は司法が役割を果たすべきだったが、裁判を起こしても司法は問題が風化したころになって、ようやく同盟が負ける判決を出す。公共工事を巡って行政と住民が対立した時、その間に割り入って、工事を一時ストップさせ、双方の主張の間を取っていくということがない。三権分立といっても日本では司法が一番弱い。だから成田の百姓は司法を信用していない。体を張って血を流し、警察に捕まる覚悟でやらなけれな問題は表面化しないし、是正もされない。隅谷調査団のようなものができて、仲介者として機能してしまうことについて、司法は恥と思うべきだ。」と言っている。
 この石毛氏の方が前回紹介した家永三郎氏よりも日本の司法の実体を正確に把握していると思う。
 15回のシンポジウムの成果として隅谷調査団は次の解決案を示した。

 (1)運輸省・空港公団による収用採決申請の取下げ。
 (2)2期工事BC滑走路建設工事計画を白紙に戻す。
 (3)今後の成田空港問題の解決に当たって新しい話し合いの場を設ける。

 この条件を国側も反対同盟側も基本的に受入れ、シンポジウムが終了した。

 5)官と民の「共生」の道

 次の段階は国と反対同盟という対立する2者だけでなく、関係する付近地域の住民をも参加して「円卓」を囲んで話し合うことであった。
 平成5年9月20日の第1回円卓会議から平成6年10月11日の第12回円卓会議までの話し合いのテーマは、空港と地域社会との「共生」をどのように実現するかという問題であった。今までは国・空港側と反対同盟側の背後に隠れていた空港周辺の地域社会の多岐に渉る利害関係人の代表者が初めて発言の場を与えられた。彼らの多くは、反対同盟のように生活基盤である農地を奪われることはないが、騒音被害を受ける立場にあった。
 また彼らは空港施設との関わりによって、第2期工事の早期完成によって、成田空港が充実した国際空港になることを期待している点で、反対同盟と異なった立場にあった。
 ここに2極対立構造から、官・民共生の可能性が出てきた。
 官はシンポジウムを通じて、公共工事といえども、その実施は民との共生を図りながら遂行することが必須条件であることを理解し、共生のためのコストを社会的費用として認識するに至っていた。

 6)大団円

 円卓会議の総括は次の様なものであった。

 (1)対立構造を解消し、成田空港の整備は地域との共生を図り行うこと。
 (2)平行滑走路は必要性を認めるが
 (3)横風用滑走路は平行滑走路と切離して再検討する。
 (4)騒音問題を最大限配慮する。
 (5)飛行回数を20万回/年程度とする。
 (6)地球的課題の実験村に取り組むが、その場所は必ずしも元BC滑走路用地に限定はしない。
 (7)(仮称)共生懇談会を作る。

 この隅谷調査団の最終所見を国・反対同盟・地域住民組織が大筋において受入れ、大団円となった。
 ここにおいて隅谷三喜男氏と調査団は、対立する体制と反体制の共生に成功し、戦後民主主義の最大課題を解決した。私は氏と調査団は現代日本の真のスタッフの典型であると尊敬するものである。

 7)座標軸

 隅谷三喜男氏は経済史専攻の東京大学名誉教授であり、元東京女子大学学長と云う教育者であるが、私にとっては、東京代々木上原教会の宥和会(既婚信者会)の先輩である。
 代々木上原教会の故赤岩栄牧師のもとで、カール・バルトの教会教義学と、マルクスの唯物論と、サルトルの実存哲学を学んだ。今から考えると矛盾の多い組合せだったが、当時は先進的な思想錬成道場だった。隅谷三喜男氏は学生時代からの信者だったが、私が通った頃は、氏は新潟大学におられ、直接お会いする機会が少なかった。氏が翻訳された福音主義教会の牧師達の説教集で氏の名前を知った。
 氏の生きるための座標軸は、タテ軸にキリスト教信仰に基づく民主主義思想があり、ヨコ軸には、経済史研究家・教育者として社会正義の実現への強い意思があるものと推測している。
 成田空港問題における氏の運営と発言は、氏の座標軸に基づいていた。それがこの問題の成功した原因だと思う。運輸省は良い人を得た。誰が氏を選択したのか。具眼の士がいたに違いない。

ニ)スタッフの座標軸

 さて、キリスト教信仰をサルトルの実存哲学によって放棄した私にとって、氏のように絶対的な他者に帰依する行動規範はない。私は私自身によって座標軸を得なければならない。
 それが尊敬はするが、氏と立場を異にする私の課題なのだ。
 以上でスタッフの史的分析を終える。次回より本論である私自身のスタッフとしての行動をご紹介する。そこで私がスタッフとしていかなる座標軸を持ち、生きたか告白したい。
 即ち、一方ヨコ軸にスタッフとしてのテクノクラシイをどのようにして習得したかを説明し、他方、タテ軸にあたるものとして、実存主義による投企をどの場合に決断したか回顧したい。


 
(次号へつづく)