スタッフの史的分析(3)
中小企業組合士 金澤智男 |
c)現代日本のスタッフの典型
前回述べたスタッフの3つの可能性に従って、現代日本のスタッフの典型を紹介しようと思う。
イ)「古典的」スタッフ 瀬島龍三
サルトルは体制側に立って、支配者層の忠実な僕として、自己の実践的知識の技術を提供する段階に自己を抑制する知識人を「古典的」知識人と規定した。この規定に合致するスタッフを「古典的」スタッフと称することにする。
現代日本の「古典的」スタッフの典型は瀬島龍三氏である。彼は陸軍参謀として、昭和の15年戦争を指導し、シベリア抑留を経て、貿易商社の経営陣で活躍、ついで各種の政府審議会の委員として、直接国政に参画するという、スタッフとして最高に地位と実績を挙げ、ついに昭和59年には、勲一等瑞宝章拝受という、スタッフとしては破格の栄誉を得た。
以下氏の自伝「幾山河」によって、氏の歩みを概括したい。
1)臨場感のない戦記
氏は下級参謀として、大本営陸軍部で作戦計画を担当し、昭和15年から昭和20年の作戦指導に当たった。この間には太平洋戦争の開戦から敗戦に至る、日本の歴史上の苦難の時期であった。
氏の戦記の著しい特徴は、臨場感がないことである。大岡昇平の「野火」「レイテ戦記」やその他の多くの戦記にあった、あの硝煙や、飢餓や、恐怖や、絶望や、死体に群がるハエや、死臭や、焼け焦げたり破壊した建物や、泣き叫ぶ裸体の子供や、強姦されたあげくに陰部を剣で刺し殺された女や、そんな戦争の悲惨さが全然でない戦記である。
そこは市ヶ谷の深く掘られた地下の冷房のきいた作戦室で、紙と鉛筆で作戦計画を書いているスタッフの姿があるだけであった。
彼が書いた作戦計画によって、多くの将兵が戦地に持って行かれ、運命を左右され、死を遂げている。彼の戦記には戦争によって南海の雲果てる彼方に消えていった、日本兵士への呵責があまり見られない。スタッフが陥りやすい欠陥である、現場にたいするイメージ不足がある。
2)居直り史観
日本の無謀なアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリヤ等との開戦に至った経緯について、氏は日本がそれらの国々に「追い詰められて」止むなく起こした戦争であり、アメリカの「ハルノート」が最後通牒でなく、日本が妥協可能な条件を示せば、日本は開戦しなかった。という「居直り史観」を述べている。
戦後日本の昭和史は「自虐史観」が大勢を占めているが、最近に至って、氏に代表される「居直り史観」が勢いをつけている。どちらも正しくないように思う。
3)撤退の名人
戦後伊藤忠商事に入社し、防衛庁の戦闘機商戦にかかわり、バッジシステムの取引で、成果を挙げたが、第2次FX商戦では、撤退し、後日大きな疑獄事件に発展した、グラマン・ロッキード事件から、伊藤忠商事社長の越後正一氏を救った。
氏は独特の情報源から、この第2次FX商戦にこれ以上係わることの危険性を指摘されこれに応じたのかも知れない。
「幾山河」にはこのエピソードが出ていない。保坂正康「瀬島龍三 参謀の昭和史」によった。
この撤退の名人であり得たのは、戦争指導の反省から「撤退も戦略の一つ」と割り切ることが出来るようになったのではなかろうか。
4)臨時行政調査会
所謂「土光臨調」で氏は委員と数部門の小委員会の委員長を勤めた。
わが国は、法律・政令に基づいた諮問機関として、審議会・調査会・委員会等を設置し、行政機関を補佐させるシステムがある。明治憲法下では、枢密院枢密顧問官という制度があったが、その代替制度であろう。これは行政が法律を作成する前に、その内容を学界・関連業界・第三者の知識者層に示し評価を求めたり、問題点を指摘してもらい、事前了解を得る機能を果たしている。場合によっては、問題の所在と対策そのものを行政に代わって提言することを行政側が求めることもある。
この土光臨調会での最大の成果は、国鉄の分割民営化であろう。国鉄労働組合は、官公庁労働組合の中核で、反体制派が強く、この勢力を破壊しなければ、すべての行財政の改革が出来ないと、支配者階層の認識は一致していた。それには単に民営化だけでは済まなくどうしても、分割民営化でなければならない。と当時の中曾根首相を先頭に立てて、土光臨調は答申をした。慶応大学教授の加藤寛氏は第4部会長として、この問題を解決し、時代の寵児になった。
私は民営化以後のJRの駅がまるでバザールのように混雑し、騒音と喧騒で渦巻いているのが不満である。経営合理化と、収支改善のためとは言え、まるでインドの市場のようなコンコースのなかを、商品と売り子を避けながら、列車に乗ることは、以前にはたしかにあった筈の、旅立ちのあの期待感と、センチメントを失わすものでしかない。残念である。
5)「体制側スタッフ」
氏はこうして公人として、晩年を過ごした。その転身ぶりは見事という他ない。が彼を軍人として戦争指導を行い、その反省を充分済ませていないのに、公人として活動することを批判する同世代人もある。
しかし、一生の大部分の時間をスタッフとして活躍した氏は、我々スタッフにとって、教師でもあり、反面教師でもある。今後の氏の発言を注目する必要があろう。
ロ)「新しい」スタッフ 家永三郎
サルトルは「古典的」知識人に次いで、自分を形成した、イデオロギーを自己検閲して支配者層の従属者であることを拒否し、「差し出口」を挟んだり、異議を申し立てる、知識人を「新しい」知識人と規定した。この規定をスタッフに当てはめた場合の現代日本の典型は家永三郎氏である。サルトル自身もこの事例に日本の歴史教育をあげているので、家永三郎氏のケースを来日前の勉強で承知していたもののようだ。
1)自虐史観
氏を「自虐史観」の歴史学者・歴史教育者の代表者と考える。氏の著書を通読すると、日本の明治維新以後の対外戦争の全てが、侵略戦争であり、日本人がアジア・ロシア・ヨーロッパ・アメリカ等諸国とその国民に与えた、戦争惨禍に対して、責任と謝罪の義務があり、それを回避しようとする歴史教育は、拒否しなければならない。と言う氏の主張を見出す。
しかしわが国のすべての対外戦争を、このように捕らえるのが正しいとは思えない。
また、近代・現代の世界史を通観した場合、コロンブス・ガマを始めとする、500年に渉る、ヨーロッパ・アメリカの中南米・アフリカ・中近東・アジアに対する、植民地収奪の歴史と、日本の行為との、時間的・空間的支配量の比較分析が必要だと思う。(最近清水馨八郎氏の「侵略の世界史」という著書に詳しく白人の500年の世界侵略史が描かれている。)
ここでは、私は明治維新以後の日本の対外戦争をその動機によって分類したい。
日清戦争 清国に対する防衛戦争
日露戦争 ロシアに対する防衛戦争
第一次世界大戦 国際的要請による協力戦争
シベリア出兵 共産主義に対する国際的要請による協力戦争
満州事変 関東軍による、独断専行があったが、ロシアに対する過剰防衛戦争
○支那事変 侵略戦争
太平洋戦争 地域によって分類を必要とする、多目的戦争だった。
植民地解放戦争 フィリッピン・ビルマ
○帝国主義的植民地争奪戦争 オランダ領インドネシア(特に油田地域)
戦争完遂のための準備戦争 フランス領インドシナなど
中国支援ルート遮断のための戦争 香港・シンガポール
目的不明の戦争 アッツ・キスカ2島など
これらの特に○印を付けた戦争で、多大の惨禍を与えたアジアの方々には謝罪をおしまないが、ヨーロッパ・アメリカのアジアの植民地の歴史と比較すると、時間では次のとおりであった。
香港(イギリス)1840〜1997 157年間
フランス領インドシナ(フランス)1885〜1945 60年間
ビルマ(イギリス)1886〜1948 62年間
シンガポール・マレー半島(イギリス) 1888〜1963 75年間
インド(イギリス)16??〜1950 約300年間
フィリピン(アメリカ)1898〜1946 48年間
これに対し日本がアジア諸国を支配したのは、朝鮮・台湾を除きつぎの期間でしかない
中国東北部 1931〜1945 15年間
中国本部 1937〜1945 8年間
太平洋諸国 1941〜1945 4年間
従って、日本の戦争責任を、世界史の視点で問うならば、ヨーロッパ・アメリカの植民地に対して行った略奪と殺人の歴史を脚注として併記することが必要ではないか。
またODA等の国際貢献も現在の国家財政の状況を考えると、いささか過剰奉仕でありアジア諸国は過去について沈黙している旧宗主国に対しても、その矛先を向けるべきではないか。日本は発展途上国に対し、そのように世論をリードする必要がないか。と思う。
2)教科書裁判
さて、本題である、氏の教科書検定を「憲法違反」とする教科書裁判問題について、意見を述べたい。
氏の高等学校用教科書が文部省の事前検定で「不合格」とされ、以後32年間、氏はその問題の評決を司法に求めた。その結果、教科書の検定制度自体は「合憲」とする、最高裁判決で決着した。(部分的には氏の勝訴になったが、検定制度自体は制度として、存在を認められた。)
もしも氏が他の方策を用いたら、実質的に、氏の勝利になったかも知れない、と思う。
以下これを検討する。
A. 教科書を実質的に使用しない学校教育
教育者として、教育界に力があった氏の立場なら、教科書を副読本にし、教師がガリ版でプリントした副読本を教本として教育現場で使用する運動を起こせば、32年間の裁判で空白な時間を失う結果にはならなかったのでは無かろうか。
B. 教科書の検定制度のうち、義務教育用の検定は訴えから除外し、高等学校用の検定制度に限定して訴える
義務教育期間は、文部省の検定を、幼年期・少年期の教育上止むを得ない制度として、訴えを放棄し、義務教育でない高等教育は、教育者の自由な選択に一任する。とすべきではなかったか。
C. 訴訟という方法自体が間違っていないか
一応三権分立がわが国の民主主義制度の建前になっているが、人事・財政・司法官になる過程の教育段階でわが国の司法制度は行政と分離していない。従って行政を被告とする訴えに対いしては、司法はa:訴えは原告に利益とならないと玄関払いをする。b:訴訟手続きの煩雑さを利用して、結果を後送りし、事件の風化による、行政の実質的勝訴を与える。c:訴えの基本的問題は原告に不利な判決を行い、訴えの末梢的問題だけは原告の主張を認める。従って、氏は司法に判断を求めつつ、他方でAを推進するか、訴訟を他の同志にも起こして貰うかして、もっと大きな運動に展開すべきだった。
3)「古典的」と「新しい」と「真の」スタッフの典型
以上でサルトルが「知識人論」で分類した2つの「体制側」と「反体制側」に立つ現代日本のスタッフの典型を紹介した。次回はサルトルが定義しなかった、真のスタッフである体制側と反体制側の中間に立って、それらの「共生」を目指して、困難を克服した現代日本のスタッフの典型として、隅谷三喜男氏を紹介する。
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