スタッフの問題 第3回 ●

スタッフの史的分析(2)


中小企業組合士 金澤智男

b)サルトルの知識人論によるスタッフの分析

 サルトルは1965年(昭和40年)日本を訪れ、東京と京都で3回の一連の、実践的知識の技術者としての、知識人の問題についての、統一したテーマの講演をした。
 これは当時のサルトルの知識人階層に対する、プロテストであった。日本のサルトル信奉者の多くは、この講演の激しい反体制的実践要求をどのように受け止めるかによって、分裂し、彼から離別した知識人が多かった。例えばサルトルの「嘔吐」の翻訳者の白井浩司などがその代表である。
 この知識人論は、今日のスタッフを分析する時、そのまま利用できる。
 即ち、スタッフの位置、スタッフの意義、スタッフの機能、スタッフの持つ諸矛盾、スタッフとメンバ−の関係、スタッフの役割、情報提供者としてのスタッフ等のテーマを分析するには、この知識人論をそのまま利用出来る。

イ)スタッフとはなにか

 1)スタッフの位置

 スタッフは生産することなく、給与所得者として、社会の支配者層から、任命されて、彼のもつ実践的知識を支配者層に提供する、技術者である。従って彼の立場は被雇用者でり、弱い立場にある。でありながら、自己の立場を超えて、差し出口をすることがある存在である。従って、支配者層からは、便利であるが「うさんくさい」「余計者」として取り扱われる場合があり、自己のアイデンテイチイを持ちにくい位置にある。

 2)スタッフとはなにか

 実践的知識はまず第一に「創出」である。スタッフはまだないものから出発して、すでにあるものを創り出すという意味で「創造者」でなければならない。その創造を成功するためには、科学者であり、探求者であり、「異議を申したてる人」でもあらねばならない。しかもその目的に最も正しい手段を選択し、決定出来る知識を持ち、成果が消費されたエネルギーに見合うかどうかを判断できる「実践的知識の専門家」でなければならない。
 目的は支配者層が決定し、労働者階層によって実現されるが、手段の研究はもっぱら第3次産業に属するスタッフの分担分野である。
 スタッフ層は、ブルジョアジー階層の中から生み出され、専門家としての教育を通じて選別された、プチブルジョアーの階層である。
 従って支配者層への奉仕者であり、且つ探求の専門家であるスタッフの二重性が彼の存在の特異性である。

 3)スタッフの3つの可能性

 知識の技術者としてのスタッフが、支配者のイデオロギーを容認して、又は適応して行動する立場をとる場合がある。殆どすべてのスタッフはこれに含まれる。
 第2は、自分を形成したイデオロギ−を自己検閲して、支配者層の従属者であることを拒否し、「差し出口」をはさんだり、異議を申し立てる、スタッフになる場合である。
 サルトルはこの2つのスタッフの可能性を指摘し、日本の歴史教育の分野での第2の事例を挙げていた。
 サルトルが規定しなかった第3の可能性がある。これは支配者層と被支配者層の一方に立たず、両者の「共生」を困難を克服して実現したスタッフの存在である。これら3つの現代日本のスタッフの典型は、次号で論じたい。
 従ってスタッフは自分にも社会にも存在する対立、つまり実践的真理の追求と、支配者層のイデオロギ−との間の対立を自覚する人間だと言える。
 この対立の自覚者であるスタッフとは、社会の裂け目を内在化した人間である。私の常に云う表現だと「実存的・弁証法的人間」存在である。

ロ)スタッフの機能

 1)諸矛盾

 スタッフは常に探究し、調査をし、実践プログラムを作成する。そしてこれらを支配者層に説明し、説得し、承認を求める。支配者層はスタッフのこうした行動が鬱陶しいと感じる場合が多い。スタッフが彼の企てを遂行してゆくときにさけねばならない大きな危険のひとつは、普遍化を急ぎ過ぎないことである。
 その結果はスタッフに対して「やりすぎ」「頭でっかち」「風車のような事業展開」とラインの責任者である、理事等から内心は喜ばれながら、感情的に反発される事態となるのである。(これは私の体験である。)

 2)スタッフとメンバー

 スタッフはラインの責任者層とは、雇用された者と雇用した者の支配関係にあり、その職分が明確であるが、一般会員とスタッフとは支配関係が不明確になる。ここでは、スタッフはテクノクラートとしての指導者になる。情報を伝達し、質問に回答し、問題解決の方法を示唆する。しかも大事なことは、その交渉において、自分のテクノクラートとしての能力を誇示しないように注意することである。自分がプチブル出身の実践的知識の技術者であることを隠し、メンバーと同じ地位にいる者であるかのように振る舞うのが、大切である。

 3)スタッフの役割

 このようにスタッフはどんなに努力しても、決して組織の内側に完全に入り込むことがなく、また完全に外側に止まることも出来ない、ラインからは追放され、メンバーからは嫌疑をかけられる存在なのである。
 しかしその中で彼の役割があり、サルトルは6つの役割を挙げているが、その内の反体制的プロテクトを別にすると、次のようなものである。

 a)実践的知識をメンバーの内部で育成し、メンバーを実践的知識人にすること
  「現在の業界団体の用語では(教育情報事業)の推進」
 b)長期目標を設定し、そこに到る行動計画を立案すること。

 「現在の業界団体の用語では(構造改善計画および構造改善推進プログラム作成)事業の推進」 スタッフの実践はこのような、時代の行く先を前取りする「先行者」の性格を持ち、誰もが、彼のあとで彼の自覚をしなおすという、立場に立つ。従ってスタッフはラインからもメンバーからも「急ぎ過ぎる」「やりすぎる」「独断専行」と非難されがちなのだ。
 (私は最近或る元ラインの長である方から「君は真面目過ぎる。」「この業界は君が考えるような高級な業界ではないんだ。」と批判された。スタッフが推進しようとする向上に抵抗し、拒否したい心理が、この元ラインの長だった方に芽生えて来た。)

ハ)情報活動とスタッフ

 サルトルの第3回の講演題目は「作家は知識人か」というものであった。これを情報活動とスタッフに読替えて、紹介する。
 作家は言語を使って、情報を読者に伝達している。スタッフも各種の情報メデイアを利用して、情報活動を行っている。従って両者には相互に共通するモメントがあろう。
 スタッフは作家と同じように、伝達すべき情報を持っているが、その手段は言語である 組織がメンバーに対して伝達すべき情報は、迅速に、的確に、最大量の情報を最小量の言語で実施する必要がある。しかも全メンバーが情報を公平に利用されなければならないが、この実行が現実には困難である。
 文字を読む行為は、エネルギーを消費し、これに反し、音声による情報の吸収は容易である。ところが音声による情報の伝達を、全メンバーに及ぼすことは不可能である。必然文書による方法を取らなければならない。
 ところがこれがラインに嫌われ、メンバーからも喜ばれない。
 スタッフはこれを克服せる努力を惜しんではならない。そのため、文学作品に文体を学び、簡潔で説得力のある文体を自ら創造しなければならない。

ニ)サルトルの知識人論とスタッフ

 とまあサルトルさんの言葉を借用してスタッフを規定したが、何と難しいものである。だから白井浩司は「知識人になるのもたいへんだなと思った。」と言ったが、これと同じように「スタッフになるのもたいへんだなと思う。」次第である。


 
(次号へつづく)